「触らせてくれる」と「爪切りができる」の間には、思っているよりはっきりした段差があります。その段差を埋めるのは気合ではなく、一回あたりの本数の設計です。切り始めてよい目安は、爪を一本だけ鞘から押し出した状態で猫が動かずにいてくれること。初回はその一本だけ切って、すぐにおやつ、そしてその日は終わり。以降は数日おきに一本か二本。一度に全部やろうとしないことが、振り出しに戻らないための一番の分かれ目になります。
膝の上で、親指を当てて一度止まる
私はたいてい、リビングの床に座ります。猫が自分から膝に乗ってくるのを待って、しばらく撫でて、それから左手で前足を包み、親指の腹を肉球の中央に当てて、ゆっくり押します。爪が出てくる。このとき、押し切らないで一度止まります。力はかけたまま、ほんの少しだけ緩める。
その状態で、猫が爪を引っ込めるかどうかを見ます。引っ込めずに伸びたままでいてくれるなら、その爪は切らせてくれる爪です。引っ込めるなら、まだ切る日ではありません。押して出して、離して、それで終わり。触られることに慣れる段階と、刃物を受け入れる段階は、地続きに見えて別物です。
手を握られるのは平気、という猫は多いです。うちの猫もそうでした。でも、爪を一本だけ出される感覚と、爪が切れるときの微妙な圧は、たぶん猫にとって初めての種類の刺激です。だから「もうこんなに触らせてくれるから」と、その勢いのまま切りにいくと、一度で振り出しに戻ります。私が最初にやったのは、まさにこれでした。三日かけて前足を触らせてもらえるようになったあと、その日のうちに全部切って、翌日からは前足を触ると引っ込めるようになりました。
切る前に、爪切りを猫の鼻先に近づけて匂わせます。匂いを嗅いで、そのまま顔を戻すなら先へ進む。顔を背けて体ごと向きを変えるなら、その日は出し直しです。音を一回だけ鳴らして見せるのも、同じ確認の一部だと思っています。
光は真上からではなく、横から当てる
薄い爪なら、芯は自然光でも見えます。困るのは黒い爪です。真上から部屋の照明を当てても、芯は爪の内側の影に沈んでしまう。ペンライトでもスマホのライトでもかまいません。爪の横、ほとんど水平に近い角度から当てると、内側の筋がうっすら浮かびます。浮かんで見えたところまでが、切らない範囲です。
切るのは、先の細くなった透明な部分だけ。ピンクや赤みを帯びた内側には刃を近づけない。それだけで、爪切りは痛くない作業になります。猫が覚えているのは痛みそのものより、「あの体勢=嫌なこと」という結びつきのほうなので、痛みを出さないことは次回の入りやすさに直結します。芯まで切ってしまった可能性があるときは、判断も処置も自分でせず、動物病院に連絡する。そういう場面だと先に決めておくと、切るときの手が無駄に震えません。
初回のルールは「一本で終わる」
最初の日は一本だけ。選ぶのは、いちばん長く触らせてくれている爪、たいていは前足の外側のどれかです。切ったら間を空けずにおやつ。皿に置くより指先から直接あげたほうが、手の記憶が書き換わりやすい気がしています。そして爪切りを片づけて、その日は終わり。もう一本いけそうな顔をしていても、やりません。
ここが、いちばん我慢のいる場面です。切った直後の猫は案外ケロッとしているので、「これならもう一本」と思う。実際、いけることも多い。でも二本目で得るものはわずかで、失うものは大きい。二本目で嫌な顔をされたら、次回の入り口は一本目より高くなります。初回に取るべきは、二本目ではなく、次回の入りやすさのほうです。
数日おきに一、二本、を基本にする
月に一度、全部まとめて、というやり方は人間には分かりやすい。カレンダーに書けて、忘れにくい。でも猫から見れば、月に一度、長くて嫌な時間が来る、という記憶の作り方になります。一本か二本を数日おきに、のほうが、総量は同じでも一回の長さが短い。猫が覚えているのは回数ではなく、一回の長さと、その終わり方です。
始める合図は、爪先がフローリングでカチカチ鳴り出したころ。音がしてから数日以内に、一本か二本。前足と後ろ足では頻度が違います。後ろ足は歩くたびに削れて、前足ほど伸びません。だから中心は前足で、後ろ足は様子を見ながら伸びていたら切る。ただし、高齢で寝ている時間が長い猫や、室内だけで過ごす猫は後ろ足も伸びてきます。うちでは後ろ足は月に一度、抱っこしたついでに爪先を確認するだけの日を作っています。
途中で引っ込めたら、その爪は諦める
切りかけの爪を残して終わるのは、気持ちが悪いものです。あと一ミリ、と思う。けれど猫が引っ込めた時点で、その爪を「なんとか切ろう」とすると、次にこちらが手を伸ばしたとき、猫は先に引っ込みます。一回の押し切りが、次回の入りづらさになって返ってくる。だから、引っ込めたら手を離して、その日は終わり。切りかけの爪は次回に回します。
切っていない爪が一本残っていても、猫の生活は困りません。困るのは、切るたびに猫が嫌がるようになることのほうです。
どこを切ったかを、一行だけ残す
触りやすい爪ばかり切っていると、同じ前足だけ短くて、反対の前足が伸びている、ということが起こります。猫は痛がらないので、気づきにくい。私はスマホのメモに「右前 外側 済」のように一行だけ残しています。次にどこから始めるかが決まるし、「この爪はまだだったか」という迷いも消えます。手帳の端でも、カレンダーの余白でもいい。続けられる形ならなんでも構いません。
慣れてからも、ハンドリングは続ける
爪切りが当たり前になってしばらくすると、私は足を触らなくなります。切るときだけ持つ。すると、しばらくして「最近、足を触ると引っ込める」という時期が来る。当たり前で、触られる理由が切ることだけになると、足はまた警戒の対象に戻ります。
だから、爪切りと関係のない日に、何もせず足先を触って離す、を一回入れておく。切らない日があることが、切る日を楽にします。爪切りが上手くなることより、触られる状態を保つことのほうが、長い目では効きます。
それでも家で切れない猫はいる
これは書いておきます。すべての猫が家で切れるようになるわけではありません。関節が痛い高齢猫、人の手を極端に嫌う猫、保護されて間もない猫。無理に進めると、爪切りだけでなく、抱っこも、ブラッシングも嫌になります。
動物病院やトリミングサロンに頼るのは、負けではありません。プロに任せる選択肢を残したまま、家でできる範囲だけをやる。私の落ち着き先はそこです。家で切るのは、猫が受け入れてくれた分だけでいい。