ブラッシングを嫌がる猫には、全身を一度に磨こうとしないことが出発点になる。手で触れて受け入れられる場所を確かめ、ブラシはまず1回だけ。嫌がる気配が出る前に終えて、小さなごほうびを添える。この短い往復を1日数回に分けて積むほうが、一度に全部やろうとするよりずっと早く慣れる。
ブラシを出す前に、手のひらで下地をつくる
夜、テレビを消したあとの部屋。猫がいつもの毛布の上で丸くなっている。私はその横に座って、まず手のひらだけで背中に触れる。触れた瞬間、皮膚がぴくりと動くか。耳がこちらを向いたままか、横に倒れかかっていないか。しっぽの先が床を叩いていないか。
この確認を飛ばしてブラシを持つと、たいてい失敗する。猫にとってブラシは、手のひらの延長ではない。硬いし、冷たいし、動くたびに音が出る。だから手で触られて平気な範囲を先に決めておく。背中は平気、腰のあたりは少し怪しい、お腹は論外。この地図を頭に入れてから、ブラシを取りに行く。
触らせてくれたら、その時点で小さなおやつをひとつ。ブラシはまだ出てこない。これで「触られる=悪くない」という往復が一本できる。この一本がないままブラシに進むと、あとで手の段階まで戻ることになる。
ブラシは1回、で終える
ブラシを持ってきて、まず顔の高さに近づけて匂いを嗅がせる。それから毛の流れに沿って、1回だけ滑らせる。2回目はやらない。1回で手を離し、おやつをひとつ。ここで「もう終わり?」という顔をされたら、その日は成功だ。
慣れてくると、2回、3回と増やしたくなる。私も何度もそこで欲を出して、翌日ゼロに戻した。回数を増やすのは、猫のほうからブラシに顔を寄せてくるようになってからでいい。目安は、ブラシを床に置いた瞬間に逃げないこと。それまでは1回で止める。
声かけは「これから触る」の合図にする
声は動作の前に出す。同じ言葉、同じ抑揚で。「はい、いくよ」でも「ブラシ、するよ」でもいい。大事なのは、言葉が先、手が後、という順番が毎回同じであることだ。
猫は予測できる生き物だ。声をかけられてから触られる、という流れが固定されると、身構える時間が短くなる。逆に、黙って後ろからブラシを当てると、どんなにやさしく磨いても驚かせることになる。声は褒めるためではなく、合図として使う。磨き終わったあとに「えらいね」と小さく言うのは、私の場合は家の中での癖のようなもので、猫のためというより自分の区切りになっている。
嫌がる場所は飛ばす。それでも続くなら獣医へ
尻尾の付け根、お腹、後ろ脚の内側。触られるのを嫌がる場所は猫によって違う。特定の場所だけ噛む、叩く、逃げる、という場合は、そこは磨かないと決めてしまう。全身をきれいにすることより、ブラシに対する印象を守るほうが優先だ。
ただし、それまで平気だった場所を急に嫌がるようになったら、話は別になる。皮膚の下で痛みがあるかもしれない。触ると怒る場所がはっきりしている、同じ場所ばかり執拗に舐めている、毛が薄くなっている。そういう変化があれば、ブラッシングの練習はいったん止めて、動物病院で診てもらう。嫌がり方の変化は、性格ではなく体のサインかもしれない。
秒単位で数える
最初の目標は3秒でいい。3秒磨けたら、その日は合格。10秒続いたら上出来だ。1日に3秒を5回と、1回の3分だったら、慣れるのは前者だ。長時間きれいに磨くのは、慣れてからで間に合う。
記録は日付と「何回磨けたか」だけで足りる。スマホのメモでも、冷蔵庫に貼った紙でもいい。うまくいかない日が3日続いたら、ブラシを替える前に手の段階に戻る。私の実感では、道具を変えるより、手で触られる感覚を思い出してもらうほうが近道になることが多い。
部屋と時間帯を選ぶ
静かな部屋、いつもの毛布、猫がすでにくつろいでいる時間。食後のまったりした時間や、昼寝の前後は狙い目だ。遊びの途中で興奮しているときは、どんなにいいタイミングに見えても始めない。
そして、逃げ場はふさがない。これが地味に効く。壁際に追い込むと、猫は逃げる代わりに手を出す。部屋の真ん中、いつでも立ち去れる位置で、こちらは片膝をついて座る。猫が離れたら、その日はそれで終わり。追いかけない。
換毛期でも一度に取らない
抜け毛が増える季節は、つい全部取ってしまいたくなる。だが換毛期こそ、一度に長くやらないほうがいい。短い時間を何回かに分けて、その日の分だけ取る。取りきれない毛は、猫自身の毛づくろいと日々の掃除で少しずつ減っていく。
毛玉が気になる長毛の猫でも、始まりは同じだ。手で触れて、1回磨いて、おやつで終わる。長毛だから特別に長く磨く、ということはない。短毛の猫も、換毛期の短毛の猫も、入り口は同じ一歩になる。
やってはいけないこと
首の後ろをつかむ、押さえつける、逃げ道をふさぐ。この三つは、その日のブラッシングを終わらせるのではなく、次のブラッシングを難しくする。押さえつけられて嫌な思いをした猫は、ブラシを見ただけで警戒するようになる。
動物病院での処置のように、体を動かさないようにしないといけない場面は、日常のケアの中にもある。だがそれは毎日のブラッシングとは切り離して考える。日常のブラッシングは、途中でやめられる形にしておく。やめられること自体が、猫にとっての安心になる。
短く終わることを、諦めと呼ばない
1回磨いて終わり、という日が何日か続くと、物足りなさを感じる。私もそうだった。だが、短く終わった日は、猫との間に何も残していない。嫌な記憶も残していない。それが次の日に効いてくる。
ブラシを置いて、猫が毛布の上で向きを変えて寝直す。その背中を見て、今日はここまで、と決める。その繰り返しの先に、いつの間にか手が止まらなくなる日が来る。