猫のデンタルケアでいちばん見落とされやすいのは、口の中の汚れそのものより、ケアの前と最中に体に出る「順番」のほうだ。体がこわばって耳が横を向き、しっぽが止まる——これは「少し緩める」の合図。しっぽが振れ始め、瞳孔が開き、低いうなり声や逃げの動きが出る——これは「今日はここで終わり」の合図。この二つを別のものとして扱い、前者でペースを落とし、後者で切り上げることが、結果として翌日も口を触らせてもらえる関係をつくる。

夜の九時を少し回ったころ、リビングのカーペットに座って、人差し指に巻いたガーゼを左手で押さえている。テレビは消してある。スマホは伏せてある。膝の上でうちの猫が丸くなっていて、わたしはまず上唇の左側、犬歯のあたりにガーゼを当てる。
ここからが本番だと思われがちだが、わたしにとって本番はここではない。手を動かし始めた瞬間に、指の腹に伝わる体重のほうを見ている。前のめりに体重がかかったら、それは逃げる準備の一段目だ。
耳はどうか。正面を向いたままだろうか、それとも外側に少し回り始めているか。しっぽの先は動いているか、止まったままか。目は細くなっているか、見開いているか。この四つが、今日どこまで磨けたかより、ずっと重要な情報になる。
合図は二択ではなく、段階で来る
「嫌がったらやめる」という言い方をよく見かける。ただ、それだと嫌がり方に二種類あることを取りこぼす。
うちの猫の場合、まず体重が沈む。次に耳が横を向く。ここまでが一段目で、この段階なら手を止めて五秒待ち、口の端を一度だけ撫でてから、もう一度だけ続けられる日が多い。
二段目ははっきりしている。しっぽが左右に振れ始める。瞳孔が開く。喉の奥で低い音が鳴る。顔を背けて、膝から降りようとする。ここまで来たら、その日はもう終わりにする。続けたところで落とせる汚れはごくわずかで、代わりに「口を触られると嫌なことが起きる」という記憶だけが残る。
一段目で止めれば、多くの日はあと数ストロークぶん取り返せる。二段目まで進んでから止めると、その日はそこで打ち止めになり、翌日は最初の一当てで耳が横を向く。この差は、一回の歯みがきの出来不出来よりずっと大きい。
固まっている猫は、おとなしいのではない
いちばん危ないのは、暴れる猫ではなく、動かない猫のほうだと思っている。
暴れる猫はわかりやすい。問題は、口を触られてもじっとしている猫で、これは「慣れてくれた」ではなく、動けなくなっている可能性がある。見分け方は体の硬さだ。抱き上げたときに棒のようになっていないか。喉のあたりを触ったとき、飲み込むような動きが返ってこないか。呼吸が浅く速くなっていないか。頭は動かず、目だけが動いていないか。
固まるという反応は、こちらへの同意ではない。逃げるという選択肢を出せないほど追い込まれている状態のことがある。だからわたしは、動かないから楽だと思った日ほど、早めに手を引くようにしている。
ゴロゴロは安心の合図とは限らない
これには何度か驚かされた。ゴロゴロという音は、くつろいでいるときだけ出るものではない。緊張しているときや、体の調子がすぐれないときにも出ることがある。
なので、音だけを判断の材料にはしない。ゴロゴロいっていても、体が硬く、耳が横を向き、しっぽが止まっていて、唾を飲み込むような動きが続いているなら、わたしは体のほうを信じて手を止める。音は耳で聞くものだが、判断に使うのは指の腹と、目で見た姿勢のほうだ。
「やめる」を選ぶと、翌日が変わる
やめるのは負けではない。というより、やめること自体がその日の成果だと考えている。
一段目で切り上げると、猫の中では「口を触られる→嫌なことが起きる前に終わる」という順番が積み上がっていく。これが何日か続くと、始める前の体の硬さが少しずつゆるんでくる。うちでは、三日続けて一段目で終えたあと、自分から口のあたりをこちらに向けてきた日があった。あれは、長く磨けた日よりうれしかった。
逆に、どんなに少量でも毎回二段目まで進めてしまうと、始める前から耳が横を向くようになる。それに気づかず「最近は慣れてきた」と勘違いして、さらに時間を延ばしてしまう。悪化のサインは口の中ではなく、始める前の姿勢に出る。
やめる基準は、始める前に決めておく
これがわたしにとっては一番効く。基準は、ケアを始める前に決めておく。
たとえば、耳が横を向いたら三秒以内に手を離す。しっぽが一度でも振れたらその日は終わり。そう決めてから始める。始めてから決めようとすると、ほぼ必ず「あと少しだけ」という言い訳が出る。人間のほうが、終わらせるのが下手なのだ。
基準は猫ごとに違う。うちの猫は耳より先に体重が変わるので、基準は「前のめりの体重」に置いている。あなたの猫がどの順番で合図を出すかは、記録しないと見えてこない。
記録するのは、できたかどうかではない
スマホのメモに、日付、左右どちらを磨いたか、何ストロークで止めたか、どの合図で終えたか。それだけを書いている。三十秒で終わる作業だ。
「今日はできた」ではなく「今日は耳で終わった」と書く。これを二週間ほど続けると、傾向が出てくる。右側ばかりで耳が横を向くなら、右は一回だけにして左を長めにする。夜より、食後すぐを避けたほうが楽だというのも、この記録で気づいた。
うまくいかない日が続いても、記録が残っていれば「できなかった」ではなく「この条件では難しかった」と読める。それが次の手を決める材料になる。
それでも毎回つらいなら、やり方を下げる
どの日に試しても二段目の合図が出るなら、それは努力不足ではなく、やり方が合っていないという合図だと思っていい。
口を開けずに、唇の外側からデンタルシートを滑らせるだけにする。指サック型のブラシに変える。歯ブラシは今日は使わない、と決める。ガーゼを当てるのは左右で一往復ずつだけにする。方法を下げても成立する日が増えて、猫の体の硬さがゆるんでから、少しずつ戻せばいい。
口の中の状態そのものの判断は、わたしにはできない。歯石なのか、歯肉の色なのか、よだれの量なのか、そのあたりの相談は動物病院の仕事で、こちらは「毎日どれだけ触れるか」を整える側だと思っている。続けられない理由を、家庭だけで抱え込まなくていい。
押さえつけない、これだけは譲らない
最後に一点だけ。磨き切るために体を押さえつけたり、首の後ろをつかんだりはしない。それをすると、その日は磨けても、次の日からのハードルが跳ね上がる。そして何より、逃げられない状態にされた猫は、噛むか引っかくかで反応するしかなくなる。こちらの手が傷つくのはまだしも、猫にとっても安全な形ではない。
手を離すというのは、負けを認めることではない。むしろ、次の一回を成立させるための一番確実な投資だと、いくつもの夜を経て思っている。
その日の目標は「磨き切ること」ではなく、「嫌な記憶を残さずに手を離すこと」。うちではこれが、いちばん長く続いたやり方だ。